自由きままに芸術鑑賞

自由気ままに芸術鑑賞

~舞台人による、舞台人のための鑑賞記録~

『HAMILTON(ハミルトン)』をニューヨークで観た感想

あぁ、そうだ、これなんだ、私の観たかった景色は...
緞帳で隠すことなく露わになった木目の舞台、そこに差すエロチックな色の照明、そしてここで起きる「事件」を一目見ようと埋め尽くす人々...

不思議なことに、アウェー感は全くなかった。だからといってホーム感があったのかと言えばそうではない。

ただ、今ここにいる全ての人間が20時の時を待っている。

興奮が爆発してしまうのを必死に抑えるかのように、グッズを見、ドリンクを頼み、PLAYBILLを読み、喋っていた。そしてそれは、現地ニューヨーカーも、下手3列目に席を押さえたジャパニーズも同じであった。

涙なんて出なかった。いや、出さなかった。
夢にまで見た景色を滲ませず、鮮明なものとして持ち帰りたかったから。だから、こみ上げる全てを必死に飲み込んで、開演の瞬間に挑んだ。

 

シャンデリアの灯りが落ちてゆく。
声のトーンが落ちてゆく。

期待と興奮が塊となって舞台に対峙する。 

 

さあ、「事件」が始まる。

 

目次

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作品との対峙

何度も何度も耳にしてきたオープニング。
それは、シャンデリアの照明が落ちると共に始まった。

とうとう始まってしまった…という、半ば後悔のような気持ちにもなった。

観たい、知りたい。この先を、もっともっと...
それでも先を知れば知るほどに、時間は間違いなく過ぎていく。終わりを迎えに行く。タイムリミットが近づいて行く。

まるで矛盾している。
オープニングの音を聴いただけでここまでの気持ちになるとは...でもこのチャンスをものにしなければいけないと、どこかで自分を戒めてもいる。
人の感情というのは、いつだってうまく説明が出来るものではない。しかし遥か遠くの国から運んできたこの足を、無駄足にだけにはしたくないという必死さが、少なくとも私にはあった。 

 

五感を研ぎ澄ませて

私はしばらくこのミュージカルの感想を書くことが出来なかった。
何度このページと向き合っても、何をどこからどのように書き進めて良いか分からなかったのだ。

「あっと言う間だった」という言葉がある。あまりにも待ちわびて、時間が気づかぬうちに過ぎ去ってしまうことの表現だ。
では、私の『ハミルトン』経験は「あっと言う間だった」のか?いや、それは決してそうではない。断じてそう言い切れる。

私は五感を集中させて劇場に挑んだ。
「あっと言う間」になりうるかもしれないからこそ、全神経を集中させた。それは決して舞台にだけ向かったのではない。客席、そして劇場周辺からも何かを感じ取ろうとした。

そしてそこには、このニューヨークという土地で『ハミルトン』がどのように受け止められているのかという、観客の反応も含まれていた。

 

ニューヨークで観る理由

私が『ハミルトン』をニューヨークまで観に来た理由がある。
それは決して日本で公演していないからではない。アメリカ・ニューヨークで観なければいけない理由があったからである。

アメリカを築いた人物の一人、アレクサンダー・ハミルトン。それは歴史上間違いのないことだ。
しかし、それを白人系の曲ではないラップ曲で構成し、ジョージ王以外は白人使わずに構成をしているということ。

そういった挑発の塊のような作品を、地元アメリカ人はどのように受け入れているのか?ということを肌で感じたかった。決して作品だけが観たかったからではない。アメリカで、どう観られているのかということを体感したかった。

 

入手困難なチケット

劇場に入るまでの列、前には白人男性が並んでいた。しばらくして女性が現れる。
「今日はチケットを押さえてくれて本当に有難う。」と、感謝の意を何度も何度も示し、遅れてやってきた彼女の連れも、また同じような言葉を幾度も繰り返していた。

嬉しかった、純粋にとても。良い作品に国境はない。本当に、素直にそう思って涙が出た。つまり、後ろに立っていたジャパニーズの私も、アメリカンの彼らもこの作品を心待ちにしているということだ。

国は違えど、人間には通じ合える心というものがある。
生の声を目の前にして、『ハミルトン』が事実、世界的人気作であるということを改めて実感できたのだった。

 

ラップの威力

私は絶句した。台詞がない。
このミュージカルはその約3時間の全てをラップだけで通した。

とても不思議な話しに聞こえるかもしれないが、CDで聴く音楽の全てが作品の全てということで、その間に寸劇やつなぎの曲などは一切ない。

3曲目辺りにさしかかった時、「まさか…」と鳥肌が立ったのだが、その勘は間違ってはいなかった。本当にラップだけでやり抜いてしまったのだから。 

ミュージカルを観に行く時、私が求めることが3つある。それは

  1. 踊り
  2. 音楽

だ。これはもちろん私に限った話ではなく、ミュージカル好きの全てがそうであろう。

素晴らしい台詞の数々もたくさんある。しかし、この3つがあるからこそミュージカルなのであって、それらが素晴らしいからこそワクワクするし感動がある。

これが、ずっと続く。持続する。

普通のミュージカルは歌・ダンスパートと台詞パートで緩急がつき、台詞パートで少し息をつくことが出来る。しかし、『ハミルトン』は休憩させてはくれない。とにかくずっとずっと、踊って、ラップして、踊って、歌っての繰り返し。

演出がすごいと言いたいのではない。「ラップ」の可能性を見出し、ミュージカルに組み込んだことが素晴らしいと言いたいのだ。

初めてミュージカルにラップを組み込んだことを、誰もが初めは「?」と思ったことだろう。しかし、ラップとは会話と歌がない交ぜになったもの。それだからこそ、台詞とも歌とも言えない独立したジャンルを築いている。

この独立したラップというものが、ずっと音楽、ずっと踊りという演出を可能にし、何よりもの見所にしていた。

 

一流の観客

アメリカの観客の反応は素晴らしい。
エンターテインメントが一流なのに加えて、観客も一流だ。

互いが挑発するシーンでは“Woooo~…”と言って雰囲気を煽り、皮肉のシーンでは“Hahaha!”とお腹を抱えて大きく笑う。

私が体験したかったのはこれだ。
土地や国に根付いた作品は、現地の言葉で現地の人と共に味わわなければ分からないものがある。こういう時に、言語や文化の尊さというものを体感せずにはいられない。

言い換えれば、曲を聴いているだけでは分からなかったフレーズが、劇場の雰囲気で初めて分かったりする。これがズルい。
これは逆説的な意味だったのかとか、挑発だったのかとか、笑いどころだったのかとか、そういうものが手に取るように分かる。現地の凄さを思い知らされ、同時に舞台という総合芸術は、観客と共に作り上げているものなんだとよく分かった。 

『ハミルトン』という作品を観に来られただけでも価値があるに、素晴らしい観客に恵まれた私は、相当な幸せ者だといえよう。

 

もう一度、もう一度…

私は思う。
世界中のどんなに高い倍率も、この作品を目の前にしてしまったら大したことなどないのでははないかと。
努力だけでは決して手に入れることの出来ないチケット。そんな高倍率の作品を観るために、全てを投げ打っても良いという人間は、一体どれだけいるだろうか。私もその人間たちの集団に片足を入れた。そして、人生にたった1度で良い、だからどうかかチャンスをくれとひたむきに願った。

それなのに、どうだろう?白状な奴だ私は。
運を引き寄せ、チャンスを得、願ったものを目の当たりにしてしまったら、カーテンコールが始まる頃には「明日も、観たい」という欲情に駆られてしまったのだから。

あぁ、そうか、これか…俗に言う「中毒」というヤツは。

私は今、あの夜の、あの空気に恋い焦がれている。

 

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